「し、しばらくお待ちください」
「待てないって言ってるだろう」
「少しです。ほんの少しの間だけですから」
「どうすんの?」
「駅の表のロータリーへ行ってきます」
客待ちをしているタクシーが数台はいるはずだ。
「早くしてよ」
「わかりましたぁ」
言って、びしょ濡れになった制服を重そうに振りまわしながら踵を返す警官。そうして走り出す背中に少年が声を掛ける。
「あぁ、誰かに尋ねられたら廿楽って名前を出していいよ。ボクの名前は廿楽脩斗だから」
「かしこまりましたぁ」
片手をあげてそのまま走り去る警官。
「まったく、使えないな。三分待っても来ないようだったら、ボクの家へ帰ろうね」
言って、肩を抱いたままの少女へ顔を向ける。目の前の顔は、驚愕で硬直したまま脩斗へと向けられていた。
廿楽? 廿楽ですって?
少女はその苗字を知っている。
「つ、廿楽?」
掠れるような声でやっとそれだけを口にする少女に、脩斗はニヤリと口元を歪めた。
「そうだよ。廿楽脩斗。廿楽華恩はボクの姉さ」
そうして、息を呑む少女の瞳を覗き込む。年下だが、背は脩斗の方が高い。
「在学中は、姉がずいぶんとお世話になりました。弟として礼を言わせてもらうよ。金本緩先輩」
緩は、無遠慮に顔を寄せてくる相手を突き飛ばす事もできず、ただ唖然と身を固まらせるだけ。
廿楽、華恩。
またその名前を聞く事になろうとは。
この人は、廿楽先輩の弟、なのか。と、言う事は。
先ほどの、警官に対してのあまりに横暴な態度。そうして、以前耳にした、同級生の言葉も思い出す。
「呼び捨てにするなんて失礼よ」
後輩であるはずなのに脩斗様と呼んでいた同級生たち。納得だ。華恩の弟であるという事は、彼もきっとそれなりの財力と親の社会的地位を背後に持った唐渓の権力者なのだろう。
廿楽先輩の弟。
呆然と目を見張る緩の表情にふふっと華のような笑顔を零し、だが軒下から空を仰いでその笑顔を曇らせる。
「本当に本降りだね。ったく、タクシーまだかな? 本当に帰っちゃうぞ。こんなんだったらこんな所になんて遊びにくるんじゃなかったよ」
「え? あの、廿楽、サマはどのようなご用事でココに?」
まさか自分と同じように、ヲタクショップと呼ばれている店に用事があったワケではないよな。それにしても、あの店に入る姿をこの人に見られなくてよかった。
ココでようやくホッと胸を撫でおろす。
目撃されたかもしれないと思うとゾッともする。周囲にはこれ以上ないほどの注意を払っていたつもりなのだが、夏に東京で行われるイベントのチケットが抽選で当たって、少し浮かれていたのかもしれない。
今度からはもっともっと気をつけよう。
肝に銘じながら少年を見上げる。身を捩って腕から逃れようとしたが、上手くできない。
私、この人に抱きかかえられている?
途端、恥ずかしさで頬が紅くなる。慌てて下を向く。表情を見られまいと、平静を装おうとしたら、思ったより声が大きくなってしまった。
「あの、廿楽様はこのような路地裏に」
「脩斗でいいよ」
「あ、は、はい。あの、脩斗様は」
慌てて言い直す。
「脩斗様はこのような寂れた路地裏にどのようなご用件で? このようなトコロは、唐渓の生徒が来るようなところではないと思うのですが」
「うん、ボクもそう思うよ」
言って、勢いよく緩を見下ろした。
「だから気になったんだ」
「へ?」
「どうして君がこんなところに入っていくのかってね?」
「え?」
「どうしてなの? ねぇ、どんな用事?」
「え? えっと、それは、あの」
瞳を泳がせる緩に、瞳を細める脩斗。
「ひょっとして、この先の、派手な衣装がいっぱい飾ってある、アニメヲタクとかが通っていそうな店に用事だった、とか?」
驚いて顔を上げると、至近距離で脩斗が笑った。
「ボク、知ってるんだ。君のこと」
「え?」
軽く眩暈が起こった。
知ってる? 私の事を? なぜ? どうして?
この人は、ナニ?
混乱して言葉も出ない。
そんな相手に脩斗はシレッと言葉を続ける。
「君のこと、知ってるよ。君がゲーム好きな事とか、アニメやゲームの登場人物が着ているような衣装に興味を持っている事とかね」
そこでふと付け加える。
「あぁ、安心して、姉貴は知らなかったから。彼女は自分の事にしか興味を持たない人間だったからね。君にどんな趣味趣向があるかなんて、そんな事にはてんで興味も持ってなかったからさ。あれだけ親しくしていたのに、まったく気付かなかったよ。それにね」
意味ありげに口元を緩める。
「君がゲームにハマってる事、ボクは誰にもバラしてはいないよ。君が必死になって隠してることも知ってるからね」
「知ってるって、どうして?」
もはや緩には、適当に誤魔化すなんて余裕は微塵も無い。
知ってるって、それはなぜ? どうして?
この人は、ナニをどこまで知っているのだ?
動悸で耳の中がうるさい。
「どうしてって顔してるね。そうだよね。君はボクの事なんて、ちっとも見てくれてはいなかったからね」
少し切なそうだが、そんなものは陳腐な演技であったかのように、コロリと表情を婀娜っぽく変える。
「ボクは見ていたよ。だってそうだろう? あの我侭極まりない姉貴にあそこまでヘコヘコと頭をさげてついてくる女なんて、どんなヤツだろうって気になるのは当たり前さ。姉貴に媚び諂う輩はたくさんいたけど、中でも君は異常なほどだったからね。まぁ、立場を考えればわからなくもないか」
唇を舐める。
「どんな手を使ってでも伸し上がろうとするその強かさ、見ていてゾクゾクする。柴沼も相当な女だったけど、君はそれ以上だ」
その瞳の方がよっぽど寒気を感じる。
そんな恐怖すらも感じながら、緩はただ黙って相手を見上げるのみ。脩斗は腕の中から開放してはくれない。雨脚は強まる。警官はナニをやっているのだろう。
なんとか脩斗の隙を見つけようと焦る緩に、トドメのような囁きが響く。
「そんな君の一番の弱みを握った時、ボクがどれほど嬉しかったか、君にはわかる?」
「弱み?」
「そう、ボクね、君みたいな強かな女をイタブるの、大好きなんだ」
舐めた唇が血のように赤い。
「ボクが君の娯楽を校内にバラしたら、どうなるだろうね」
「やめて」
無意識に言葉が口から飛び出た。
「やめて」
「そうやってしおらしくしていると、可愛いいんだよね。だから目が離せないのかもしれないな」
そう言って、腕に力を入れてさらに緩を引き寄せる。向かい合う二人は、このままだと触れ合ってしまいそうだ。
やめて。
もはや口を開くことすらもできない。
そんな緩に、脩斗は甘く甘く、しっとりと濡れるような声音で囁いた。
「開放してほしい?」
「離して」
「それは、君次第だな」
「え?」
「ねぇ、緩、ボクと付き合わない?」
「え?」
「ボクね、今まで年上の女と付き合った事がないんだ。一度でいいから年上を掌の上で弄んでみたいんだよねぇ」
季節が梅雨である事を知らしめる雨はジットリと重く、蒸し暑く、緩の背中を汗が一筋流れていった。
------------ 第19章 朝靄の欠片 [ 完 ] ------------
|